日銀の仕組み

日本の中央銀行である日銀のことについて

バブルと日銀

日本経済の停滞は、1980年代のバブルの反動だと言われています。
この時代、株価や土地がどこまでも値上がりを続けていて、高級な自動車が飛ぶように売れていました。


異常なほどの好景気で日本が沸いていた時代だったのですが、1991年、突如バブルが崩壊し、それから日本の経済は停滞し、いまもなお後遺症に苦しんでいます。



このバブルの切っ掛けは1985年、世界経済の中心であったアメリカが当時史上最大の赤字を記録しており、この窮地を救うために日本をはじめとする先進5ヶ国が、ニューヨークのプラザホテルに集まり、アメリカドルを引き下げ、円を引き上げることを決めました。
これが、いわゆるプラザ合意と呼ばれています。


当時、1ドル=235円といまでは考えられないような円安の時代で、これをプラザ合意の後、1年で1ドル=150円台にまでドル安が進むことになりました。


これにより、アメリカの対日赤字は改善されはじめたのですが、円高・ドル安になったことで、今度は日本の輸出産業が苦しむようになりました。


そこで、日銀は数年かけて、公定歩合を引き下げ、2.5%まで下がると企業がかなりの低金利で資金を調達することができるようになり、このため世の中にはお金があふれ、株式やとちに投資されるようになり、バブルが発生しました。


そもそも公定歩合を2.5%に引き下げた時点で、景気回復の兆候が出ていたのですが、それにも関わらず、日銀は低金利政策を止めませんでした。


そして1987年、ニューヨーク証券取引所で史上最大の株価が暴落、ブラックマンデーが発生し、このアメリカの経済悪化に配慮した日銀はさらに低金利を継続することになります。


この金融政策のミスがバブルをさらに拡大させることになったと言われていて、その加熱するバブルを抑えるため1990年に金融引き締め策を実施するのですが、それと合わせて不動産向け融資の総量規制もはじめたのです。